一人称


子供たちは小学校に入る前、あるいは入ってすぐに一人称の洗礼を受ける。

それまでは自分のことを名前で呼んでいたのに、いつのまにかそれが恥ずかしいことであるような雰囲気が漂っていて、子供たちは大人とおなじ一人称を使うようになるのだ。男の子は「ぼく」とか「おれ」、女の子は「わたし」か「あたし」、そんなところだろう。

わたしは子供のころ、自分のことを「わたし」と言えなかった。

自分を女だと認めることが恥ずかしかった。女児用のおもちゃコーナーにいることが恥ずかしいと思ったし、親に買い与えられた服がフリルとかピンクとかだと保育園に行けなかった。日曜朝の子供向け番組は三本続けで、戦隊モノ、仮面ライダープリキュアの順番だったが、家族にプリキュアを観ていると思われたくなくて、仮面ライダーが終わった後すぐにリビングを去った。

一人称をいきなり「わたし」に変えるということは、自分が女の性を持っていることを周囲に知らしめる儀式のように思えた。それはとてもでないが羞恥心からできなかった。

しかしいつまでも自分のことを名前で呼ぶわけにはいかない。そこでどうしたかというと、一人称を「ぼく」にしたのだった。ぼくというのが男の子の一人称であることは知っていた。しかし、周りの男の子たちはみんな「おれ」を使っていたから、「ぼく」はちょうど誰も使っていない一人称だった。なら「ぼく」は男でも女でもないわたしが使わせてもらおう、そう考えた。

周りの男の子がすべからく「ぼく」でなくて「おれ」だったのには理由がある。

わたしの故郷の大人は皆、男も女も自分のことを「おれ」というからだった。父も母も祖母も「おれ」だった。だから「ぼく」という男の子はアニメや漫画でしか見たことがなかった。

しかし、両性共有の「おれ」は女児にとって大人すぎる言葉だった。ちょうど標準語の「私」が男の子も使える一人称になるのはある程度大人になってからであるように、わたしの故郷での「おれ」もそうだった。

それでわたしは大人になるまでの一人称を「ぼく」で凌いだのだった。

六年生くらいになると周りの女の子たちが「おれ」を使いはじめた。それでようやっとわたしも「おれ」というようになったが、なんと便利な言葉だろうか、あのときの感動は忘れられない。「おれ」は英語におけるI、ドイツ語におけるich(イッヒ)みたいなものだ。性別が特定されないことは素晴らしい自由だった。

上京してわたしは一人称を「わたし」に改めた(東京では女子が「おれ」と言っているとイタい子だと思われる)。「わたし」は男性も使っていい一人称だからかわたしのなかにスッとなじんだ。親密な仲では、いまでも「ぼく」「おれ」を使う。まるで毎日の服を選ぶように、「わたし」「ぼく」「おれ」を選択できることで、わたしは「わたし」に閉じ込められすにいられる。